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竹の竹斎、桐の留斉、桑の南斎。この人たちの作品を持っていた。竹斎の花籠は失ったが、あとの二人のものは今も大切にしている。三人とも近世の名工として伝っているが、作品が少く、それぞれ家庭に入ってしまったので容易に見る機会がないようだ。 私はかねがね職人の話をきくのが好きで、二三の人がいろいろの分野の職人の話をききがきした本を読んだ。しかし何となく表面をなでただけ、その職人の個性が出ていない。どの人の言葉使いもいわゆる「職人言葉」になっているのが多く気に入らなかった。 私は三人の名工のうち会ったのは、桑の前田南斎だけであった。そのことを書こうと久しく思っていたが、むずかしくて手が出なかった。それでは今は書けるのかと自問して見ても自信はない。しかし私のこの連載も終りに近づいたので勇気をふるってとっかかろうと思うようになった。老来体力も衰え、行動も頭もにぶくなったので、てきぱきと物ごとが運ばない。老人らしく、病人らしくたいらの心持で過したいと考えるのに、そういかない。腹の立つことのみ多くて厄介である。夜一人で酒をのんでいると、だんだん頭が冴えて来たような気分になる。そうすると、この稿に書いてもよさそうな「材料」が次から次と浮んで来る。その時すぐに記録しておけばよいのだが億劫なのでそのままにしておくと、翌朝はきれいに忘れている。夢幻の世界などというのは、こういう心持であろう。職人のことを考えていると、この頃の世相がむやみに忌々しい。 |
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職人がよく変人だといわれる。変人などではないのだ。まっとうな人間なのだ。いくら注文があってもなかなか仕事をしない。金のあるうちは仕事をしないで酒ばかりのんでいるなどといわれる。しかし職人の身になったら酒でものまずにいられぬのであろう。 岸田劉生の愛用した印に隠世道宝というのがある。劉生は自分が職人だなどと思ったことはないだろうが、貧乏し、何事も意のようにならなかった時こういう心持が生じたであろう。 |
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さて私の夢幻の境をさまよう想念は世相にまで及び、アフリカや印度などの民衆のひどい姿を写した写真などに飛ぶのだから始末が悪い。そうして夜が更けてしまうのだ。 今年七月三十日は露伴先生の三十三回忌だった。私は北軽井沢の山小屋で独り先生の思い出に耽った。「老始愛陶詩」という陸游の句を発見し、露伴先生のことを思うと、苦い日にあんなに人の考えられないほど先生に会い尊い時間を邪魔したのに、一体俺は何を学んだのだろうと思う。そしてこの頃、露伴全集をのぞいて見ると、始めてああそうかと思うことが多い。ここにも私の怠惰と甘ったれがあった。またしても日暮れて道遠しの感を抱かずにはいられない。 先生は晩年竿を使っての釣りをしなかった。「誰かわかる人にあげようかと思っているが」と云ったがとうとう誰にも与えず、昭和二十年五月二十五日、伝通院の蝸牛庵に於いて焼亡してしまった。「幻談」を書く時露伴先生の中には、この名竿があったにちがいない。竹は布袋竹で、それを選び育てる話などもきいた。作者は、「竿忠」といった。 |
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竹と木と土で作ったものは美しい。もちろん他に金属や月、漆などあるが、職人とか名工の作ったものはこういう材料で作ったものが親しい。私はコンクリートで固めたもの、ビニールを使ったものなど好きになれない。同じ石類でも雲崗の石仏に素晴しいもののあるのは知っているし、日本でも野仏の中に素朴な美を見ることが出来る。しかしあれが若しセメントで出来ていたらどういうことになるだろうか。 正倉院の中を見ることは戦前はやかましい身分の制限があったし、現在もほぼ同様である。しかし私は昭和二十六年にここへ約一週間つづけて入ることが出来た。岩波写真文庫のスタッフが御物撮影のために入ることを許されたのである。 |
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私は最初、竹斎、南斎のことを話したいと考えたのだが、竹斎のことも南斎のことも調べることが出来なかった。しかも竹斎の作品はなくなってしまった。桐の留斎の作った文台があるので、それを写真にして、掲載するにとどめる。漆で書かれた文字は露伴先生の筆で裏側には「白香山詩説」 「露伴道人」と墨書されている。文台の美しさに露伴の漆書きが華を添えている、珍品と申すべきであろう。 |
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桑の南斎に会ったのは、既に二十年近く前ではないかと思う。 銀行家の曾志崎誠二翁が南斎を知っていて、その作品を見に行こうと誘われた。安倍能成、小宮豊隆両先生も一緒だった。 南斎はすでに年とっていて、しかも病後であった。いろいろの作品が家の中に置いてあり、それらは希望者の注文で作ったものであるときいた。作品といっても家具が主のように見うけられた。いずれも桑の良い材料がつかわれていて美しかった。箪笥や鏡台用箪笥、その他手文庫など皆美しかった。 しばらくして、誰からともなく賞賛の嘆声が発せられた。 私は、自分でも思いがけなかったが突然これをゆずってくれと云ってしまった。人々はあっけに取られたようにしていた。南斎は私の顔をじっと見すえた。私も目を伏せず南斎の顔を見ていた。やがて南斎は、ふり切るような気配で「あなたにゆずりましょう」といった。そして大切にして下さいよといった。 南斎が机を渡してくれるまでに尚時間がかかった。私はその心持を察して一刻も早く渡してくれとはいわず、何回か南斎家を訪れた。そして桑の手文庫や松の香合を貰った。 机の板のまわりに打ってある装飾の釘の形は正倉院の御物の中のものから学んだと南斎はいった。 南斎の桑の机や留斎の文台を見ていると、いったいこれらの作品はどのようにして作られたのだろうと思う。 二人とも名エと呼ぶことに誰も異存はあるまい。しかしその名工はどのようにして出来たか、今にしては誰も知ることは出来ない。その出生の所、年月日、歿年等は調べればすぐわかるだろう。しかし私はそれをしない。作品があるから他のことはいいと思うのだ。二人共家族があり、留斎の妻女は「ふみや」と露伴家で呼ばれ、晩年の露伴先生に仕えていた。如何にも職人の女房らしくはきはきてきぱきした女であった。 |